立川市議会議員 松本マキ

立川に笑顔と幸せを

プロフィール

経歴

【平成16年】
中央大学法学部法学科卒業
派遣社員としてホンダ国立府中店に勤務しながら旧司法試験受験を重ねる
【平成20年】
司法書士試験に転向、合格
立川市の事務所に勤務
【平成22年】
立川市に司法書士拓実リーガルオフィスを開設
【平成27年】
立川市議会議員初当選
環境建設委員会
【平成28年】
厚生産業委員会 副委員長
【平成30年】
立川市議会議員2期目当選
総務委員会所属
  • 公益社団法人成年後見センター・リーガルサポート会員
  • 公益社団法人立川青年会議所OB
  • 一般社団法人相続あんしんサポーター理事
  • 公益社団法人立川法人会会員
  • 立川商工会議所会員
松本マキ写真

立川市に恩返しがしたい

手を差し伸べたら、この地域が助けてくれた。

「立川が好きだから!」という気持ちだけで、このまちを選んで起業した。人脈も、顧客も、お金もない。でも、このまちに賭けてみようと、開設した小さな司法書士事務所。最初は、電話が壊れたのかと思うほど、鳴らない。仕事がない。どんどん減っていく預金残高…膨らむ不安に押しつぶされそうになった。
そんな時、東日本大震災がおきた。ただただ、知っている人の安否を確認したくて、「大丈夫ですか」といろんな人に連絡を取った。「大丈夫ですか」、「余震には気を付けて」、「ろうそくが売り切れだって」、「食べるものを送ろうか」…徐々に人と人とがつながっていった。2011年3月。人とつながれば、次第に地域とつながって、それがいつかは仕事につながって、そしてかけがえのない仲間になっていった。

写真②

このまちが助けてくれたから、今の私があります。

手を差し伸べれば、応えてくれる人がいる。助けてくれる地域がある。女性が、たったひとりで生きていくにも困らないように…。このあたたかい気持ちをもっと広めたい。今現在も、私みたいに困っている人がたくさんいます。私は手を伸ばすことができたけれど、中にはどうしたらよいのかわからなくて、一人で抱え込んで、とじこもっている人、泣いている人、あきらめている人がいます。そんな人たちに寄り添って、隣に座って、まずは声を聴くことから始めたいと思いました。声なき声にも、耳を澄まそう。こうして、市議会議員になることを決意しました。

生い立ち

≪幼少期≫

写真③

昭和55年栃木県小山市出身。獅子座。AB型。祖父、祖母、父、母、妹の6人家族。4歳の時から柴犬を飼っていました。この柴犬『光太郎』は15年生きて、いつもお供をしてくれるかわいい相棒でした。
父は個人事業主として職人というか靴製造業をおこなっておりました。のちに景気の影響や輸入品に圧されて廃業をし、転職をしましたが、いつも学校から帰ると、とんとんとんと…と革を叩く音が響く父と母の仕事場へ行って宿題をしたり、そこにある道具で妹と遊んだりして過ごしました。
常に家族がそばにいるというのがあたりまえの、自然に囲まれた集落で、農業をしながら、決して裕福ではありませんでしたが、のどかに生活をしていた幼少期でした。
小学校は地元の小さい学校で、1学年1組しかありませんでした(6年間みんなとずーっと一緒)。幼稚園の頃から『何か特技を』ということで始めた書道について、当時の校長先生にとても褒めてもらい、嬉しくて練習したら書道展で金賞を取って自信を持ってしまいました。書道はその後中学まで一生懸命励みました。五段です。書道とともに本を読むことが好きで、家は貧乏でしたが、両親は本ならば惜しみなくいくらでも買ってくれました。
その後は地元の県立女子高に通い、太宰治と山田詠美とエヴァンゲリオンがお気に入りの、オタクっぽくて小生意気な子でした。
能天気な性格は小学生の頃から変わらず、さんざん友だちとドブ川でザリガニやメダカを取ったり、雑木林でカブトムシやクワガタ、セミを採ったりしました。大人になっても平気で虫を触れるので、男性にもびっくりされてしまいます。

≪青年期≫

写真③

高校生の頃から法律系の職業に興味を持ち始め、大学は中央大学の法学部法律学科に進学しました。
実家が貧乏だったので大学では奨学金をもらい、ロイヤルホストのウエイトレスやユニクロでアルバイトをしながら、司法試験受験団体に所属し、旧司法試験の受験を重ねました。受験予備校の伊藤塾やLECにも通い、卒業後はホンダのショールームで派遣社員をしながら、一生懸命勉強しました。
しかし択一さえ受からず…人生で初めての挫折。『人間にはどんなに頑張っても叶わないことがあるんだ…。自分はこの先何を目指したらいいのだろう。もう生きている意味がない。』とうつ病になってしまいました。
父とは、『卒業後2年間は支援する。しかしそれで駄目だったら一般企業に就職する』という約束をしていたので仕送りも打ち切られてしまうところ、母が父の反対を押し切ってパート従業員をしつつ、それをせっせと私におくってくれました。
受験生というのはとてもお金がかかります…家賃生活費の他に予備校の授業料や模擬試験の費用で年間何百万と消えてしまいます。私のいないところで何度も家族会議が開かれたそうですが、母は『勉強だけに集中してほしい』という一心で一言も言いませんでした。

≪司法書士事務所の開設≫

ロースクール制度も始まり、司法試験に限界を感じていた26歳の時、司法書士という道もあることに気付き、さっそく勉強を始めました。司法試験と司法書士の試験は重なる科目が多く、転向して8か月で合格を果たすことができました(2008年)。応援をしてくれた母に心から感謝をしました。
ほとんど同時期、母は病に倒れました。私が大変な苦労をかけたため、その負担を家族が被るということの悲しさを思い、胸が痛くなります。やっと社会に出られる切符を手に入れたのだから、司法書士として1日も早く身を立て、親に安心させること、が次の私の夢になりました。中野区と立川市の事務所で勤務をし、2010年、念願の自分の事務所『司法書士拓実リーガルオフィス』を、立川市錦町に開設いたしました。
なぜ立川市を選んだかというと、学生時代ずっとアルバイト先や受験予備校は立川市にあったので、辛い時も悲しい時も嬉しい時も何もかも経験し、慣れ親しんだこの街にずっと骨を埋める覚悟で商売をしたい!と思ったからです。
最初は家賃8万6000円の小さなマンションの一室で、パソコンで作った表札を掲げ、事務を始めました。地縁も血縁もないこの街で、ただガッツだけはありましたが、それだけでは商売はうまくいきません。そして開業して4か月目に東日本大震災が発生。その時の貯金はたった8万円でした。
不安な気持ちの中、とにかく知り合いに『大丈夫ですか。お困りごとはありませんか。』という連絡を取りました。すると、その返信がひとり、ふたり…と来て、だんだんと人と人とが繋がっていき、その中で『ひとつ相談をしてもいいかい?』とか『こんなことをやってくれないか』というご依頼が増えてきました。
誰も仲間がいなかった私だけれど、地域に手を伸ばしたら、必ず応えてくれる人がいるものだ!とものすごく感動をしました。『私のできることで何かお役に立ちたい。それを通して仲間に入れてほしい。』その方針は間違っていなかったのだと思います。よそから来た者であるからこそ、より一層地域の活動に励みました。皆様に感謝をいたしました。
『ありがとう』という言葉は『有り難い』という言葉から来ています。『ありがとう』の反対語は『あたりまえ』なんだそうです。
よそ者だからこそ、何気ない地域のこともとても新鮮に、有り難く感じました。『うちの町会でお神輿を担いでよ!』と言って渡されたはっぴ。それも仲間として認めていただけた証として有り難いことでした。立川青年会議所にも入会し、積極的に地域貢献活動に取り組みました。こうして、私の方針に賛同してくれるスタッフが、ひとり増え、ふたり増え…事務所も少し大きくなりました。
地域のかたのご相談ごとはできる限り取り組みます。司法書士として初回のご相談を無料としているのは、敷居が高いと思われがちな職業だけれど、いつでも気軽に相談したい時に開かれている窓口でありたい。いつも隣に寄り添う身近な立場でありたい、との思いからです。

≪市議会議員に立候補≫

2015年6月。立川市議会議員の補欠選挙がおこなわれるので立候補してみたらというお声をいただいた時、それも大変に有り難いと思いました。お世話になったこのまちに恩返しがしたい。日頃お受けしているご相談ごとから感じた様々なこと、行政へ現状を伝え、打開策を考えていきたい、そういう想いが溢れてきました。 『聴かせてください。』
このキャッチフレーズは、いつまでも開業当初の謙虚な気持ちを忘れないでいよう、政治家としての原点も市民の目線に合わせ心通わせてお話を聞くことを大事にしたいとの想いからです。当選をさせていただきまして、今後はより一層皆様のお力になれるよう努力していくつもりです。応援よろしくお願いいたします!

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